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第5話  近づくほど、遠くなる

last update publish date: 2026-09-17 19:00:54

翌朝。

美咲はいつもより少し早く目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。

蓮と話した。

それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。

好きな本の話をした。

休日の過ごし方を聞いた。

くだらない話で笑った。

たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。

スマートフォンを手に取る。

蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。

「……私、いつからこんなになったんだろう」

まだ恋人ですらない。

それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。

嫌ではなかった。

むしろ、嬉しいと思っている。

だからこそ、美咲は少し怖かった。

また誰かを好きになってしまうことが。

その日の昼休み。

美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。

画面を見る。

蓮からだった。

《今日、仕事は遅くなりますか?》

思わず頬が緩む。

《たぶん七時くらいです》

すぐに返信が来た。

《もしよければ、夕食でもどうですか》

美咲は数秒、画面を見つめた。

嬉しい。

けれど、あまり嬉しそうに返すのも恥ずかしい。

少し考えてから文字を打つ。

《はい。楽しみにしています》

送信した直後、顔が熱くなった。

「……楽しみにしていますって」

自分で書いたくせに恥ずかしい。

けれど、その日の仕事はいつもより早く終わった。

午後七時過ぎ。

待ち合わせ場所に着くと、蓮はすでに来ていた。

「すみません。待ちました?」

「いえ。今来たところです」

いつもの穏やかな笑顔。

それを見た瞬間、美咲の緊張が少しほどけた。

「何を食べたいですか?」

「蓮さんが決めてください」

「僕でいいんですか?」

「はい」

二人は駅から少し離れた、小さな洋食店へ入った。

落ち着いた店内だった。

料理を待ちながら、二人は仕事の話をした。

美咲は担当している作家のことを話し、蓮は自分の仕事について少しだけ話した。

「蓮さんって、どんな仕事をしているんですか?」

「会社では、いろいろと調整する仕事をしています」

「調整?」

「人と人の間に入ったり、問題を整理したり」

「それ、結構大変じゃないですか?」

「大変ですね」

そう言いながらも、蓮は笑った。

「でも、嫌いではないです」

「意外です」

「そうですか?」

「もっと一人で黙々とする仕事が似合いそうなので」

「よく言われます」

二人で笑う。

穏やかな時間だった。

美咲は、こういう時間がずっと続けばいいと思った。

けれど。

料理が運ばれてきたとき、蓮のスマートフォンが震えた。

蓮は画面を見る。

一瞬だけ、表情が変わった。

ほんのわずかな変化だった。

それでも、美咲には分かった。

「出なくて大丈夫ですか?」

「……大丈夫です」

蓮はスマートフォンを伏せた。

しかし、しばらくすると再び震える。

今度は長い。

蓮は画面を見ようとしなかった。

「蓮さん」

「はい?」

「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

そう答えたものの、その声は少し硬かった。

美咲はそれ以上聞かなかった。

けれど、蓮が何かを隠していることだけは分かった。

食事を終え、店を出る。

夜風が少し冷たかった。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

駅へ向かって歩く。

しばらく無言だった。

やがて美咲が口を開く。

「蓮さん」

「はい」

「私、何か聞いてはいけないことがありますか?」

蓮の足が止まった。

「どうして、そう思うんですか?」

「なんとなくです」

美咲は少し迷ってから続けた。

「時々、すごく遠くを見るような顔をするから」

蓮は答えなかった。

「昨日もそうでした」

美咲は蓮の横顔を見る。

「昔のこと、何かあるんですか?」

その瞬間。

蓮の目が揺れた。

けれど、すぐに視線を逸らす。

「……あります」

「話したくないなら、無理に聞きません」

「ありがとうございます」

「でも」

美咲は立ち止まった。

「いつか話してくれたら、嬉しいです」

蓮が振り返る。

美咲は笑った。

「私も、少しずつ自分のことを話しますから」

蓮は何も言わない。

ただ、苦しそうに美咲を見つめていた。

「……美咲さん」

初めてだった。

蓮が彼女を名前で呼んだ。

胸が小さく跳ねる。

「はい」

「あなたは……」

そこで蓮は言葉を止めた。

何かを言おうとしている。

けれど、言えない。

「……いえ」

「何ですか?」

「なんでもありません」

蓮は微笑んだ。

けれど、その笑顔はいつもより少しだけ寂しかった。

駅で別れたあと。

美咲は電車に乗り込んだ。

窓に映る自分の顔を見ながら、蓮のことを考える。

何か秘密がある。

それだけは間違いない。

でも、今はまだ聞かなくていい。

蓮が自分から話してくれるまで待とう。

そう思った。

一方。

駅から離れた蓮は、一人で歩いていた。

スマートフォンを取り出す。

さっきから何度も鳴っていた着信履歴を確認する。

非通知。

そして、短いメッセージが一件。

《あの女に近づくな》

蓮は画面を見つめた。

しばらくして、メッセージを削除する。

その直後、背後から声がした。

「桐谷蓮」

蓮の足が止まった。

振り返る。

そこには、見覚えのない男が立っていた。

「……誰だ」

「五年前のことを、まだ終わったと思ってないだろ」

蓮は黙って男を見る。

「今度は、お前一人の問題じゃない」

男はそう言って、蓮の横を通り過ぎた。

「その女まで巻き込まれるぞ」

蓮は追わなかった。

ただ、遠ざかっていく男の背中を見つめていた。

そして、無意識に呟く。

「……美咲」

彼女の名前を口にした瞬間。

蓮の中で、ひとつの決意が生まれた。

これ以上、近づいてはいけない。

美咲を守るためには、自分から離れるしかない。

たとえ──。

それが、一番つらい選択だとしても。

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