LOGIN翌朝。
美咲はいつもより少し早く目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。 蓮と話した。 それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。 好きな本の話をした。 休日の過ごし方を聞いた。 くだらない話で笑った。 たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。 スマートフォンを手に取る。 蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。 「……私、いつからこんなになったんだろう」 まだ恋人ですらない。 それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。 嫌ではなかった。 むしろ、嬉しいと思っている。 だからこそ、美咲は少し怖かった。 また誰かを好きになってしまうことが。 その日の昼休み。 美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。 画面を見る。 蓮からだった。 《今日、仕事は遅くなりますか?》 思わず頬が緩む。 《たぶん七時くらいです》 すぐに返信が来た。 《もしよければ、夕食でもどうですか》 美咲は数秒、画面を見つめた。 嬉しい。 けれど、あまり嬉しそうに返すのも恥ずかしい。 少し考えてから文字を打つ。 《はい。楽しみにしています》 送信した直後、顔が熱くなった。 「……楽しみにしていますって」 自分で書いたくせに恥ずかしい。 けれど、その日の仕事はいつもより早く終わった。 午後七時過ぎ。 待ち合わせ場所に着くと、蓮はすでに来ていた。 「すみません。待ちました?」 「いえ。今来たところです」 いつもの穏やかな笑顔。 それを見た瞬間、美咲の緊張が少しほどけた。 「何を食べたいですか?」 「蓮さんが決めてください」 「僕でいいんですか?」 「はい」 二人は駅から少し離れた、小さな洋食店へ入った。 落ち着いた店内だった。 料理を待ちながら、二人は仕事の話をした。 美咲は担当している作家のことを話し、蓮は自分の仕事について少しだけ話した。 「蓮さんって、どんな仕事をしているんですか?」 「会社では、いろいろと調整する仕事をしています」 「調整?」 「人と人の間に入ったり、問題を整理したり」 「それ、結構大変じゃないですか?」 「大変ですね」 そう言いながらも、蓮は笑った。 「でも、嫌いではないです」 「意外です」 「そうですか?」 「もっと一人で黙々とする仕事が似合いそうなので」 「よく言われます」 二人で笑う。 穏やかな時間だった。 美咲は、こういう時間がずっと続けばいいと思った。 けれど。 料理が運ばれてきたとき、蓮のスマートフォンが震えた。 蓮は画面を見る。 一瞬だけ、表情が変わった。 ほんのわずかな変化だった。 それでも、美咲には分かった。 「出なくて大丈夫ですか?」 「……大丈夫です」 蓮はスマートフォンを伏せた。 しかし、しばらくすると再び震える。 今度は長い。 蓮は画面を見ようとしなかった。 「蓮さん」 「はい?」 「本当に大丈夫ですか?」 「大丈夫です」 そう答えたものの、その声は少し硬かった。 美咲はそれ以上聞かなかった。 けれど、蓮が何かを隠していることだけは分かった。 食事を終え、店を出る。 夜風が少し冷たかった。 「今日はありがとうございました」 「こちらこそ」 駅へ向かって歩く。 しばらく無言だった。 やがて美咲が口を開く。 「蓮さん」 「はい」 「私、何か聞いてはいけないことがありますか?」 蓮の足が止まった。 「どうして、そう思うんですか?」 「なんとなくです」 美咲は少し迷ってから続けた。 「時々、すごく遠くを見るような顔をするから」 蓮は答えなかった。 「昨日もそうでした」 美咲は蓮の横顔を見る。 「昔のこと、何かあるんですか?」 その瞬間。 蓮の目が揺れた。 けれど、すぐに視線を逸らす。 「……あります」 「話したくないなら、無理に聞きません」 「ありがとうございます」 「でも」 美咲は立ち止まった。 「いつか話してくれたら、嬉しいです」 蓮が振り返る。 美咲は笑った。 「私も、少しずつ自分のことを話しますから」 蓮は何も言わない。 ただ、苦しそうに美咲を見つめていた。 「……美咲さん」 初めてだった。 蓮が彼女を名前で呼んだ。 胸が小さく跳ねる。 「はい」 「あなたは……」 そこで蓮は言葉を止めた。 何かを言おうとしている。 けれど、言えない。 「……いえ」 「何ですか?」 「なんでもありません」 蓮は微笑んだ。 けれど、その笑顔はいつもより少しだけ寂しかった。 駅で別れたあと。 美咲は電車に乗り込んだ。 窓に映る自分の顔を見ながら、蓮のことを考える。 何か秘密がある。 それだけは間違いない。 でも、今はまだ聞かなくていい。 蓮が自分から話してくれるまで待とう。 そう思った。 一方。 駅から離れた蓮は、一人で歩いていた。 スマートフォンを取り出す。 さっきから何度も鳴っていた着信履歴を確認する。 非通知。 そして、短いメッセージが一件。 《あの女に近づくな》 蓮は画面を見つめた。 しばらくして、メッセージを削除する。 その直後、背後から声がした。 「桐谷蓮」 蓮の足が止まった。 振り返る。 そこには、見覚えのない男が立っていた。 「……誰だ」 「五年前のことを、まだ終わったと思ってないだろ」 蓮は黙って男を見る。 「今度は、お前一人の問題じゃない」 男はそう言って、蓮の横を通り過ぎた。 「その女まで巻き込まれるぞ」 蓮は追わなかった。 ただ、遠ざかっていく男の背中を見つめていた。 そして、無意識に呟く。 「……美咲」 彼女の名前を口にした瞬間。 蓮の中で、ひとつの決意が生まれた。 これ以上、近づいてはいけない。 美咲を守るためには、自分から離れるしかない。 たとえ──。 それが、一番つらい選択だとしても。スマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。『話したいことがあります』蓮は、その文字をしばらく見つめていた。美咲からだった。胸の奥が、静かに痛む。連絡をしないようにしていた。彼女から離れることで、危険から遠ざけられると思っていた。それなのに、美咲のほうから連絡が来た。しかも。「話したいことがあります」その言葉が、頭から離れない。蓮は一度、画面を閉じた。返事をしなければならない。そう思う一方で、何を返せばいいのかわからなかった。今までのように、曖昧な言葉で逃げることはできない。けれど、本当のことを話せば、美咲を危険にさらすかもしれない。迷った末、蓮は短く入力した。『わかりました。会いましょう』送信する。すぐに既読がついた。そして、少しして返事が来る。『ありがとうございます』それだけだった。蓮はスマートフォンを置いた。「……ありがとう、か」その言葉が、妙に胸に刺さった。二人が会うことになったのは、以前一緒に行った小さな喫茶店だった。夕方。
美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。画面には、あのメッセージが残っている。『蓮のことを忘れてください』短い文章だった。それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。誰が送ってきたのか。どうして自分のことを知っているのか。そして何より。どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。最後に会った日のことを思い出す。「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。何かを恐れていた。美咲には、そう見えた。「……やっぱり、何かあるんだ」今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。過去には誰にだって触れられたくない部分がある。自分にもある。だから、待つつもりだった。いつか蓮が話してくれるまで。けれど。もう「待っているだけ」ではいられなかった。知らないところで、自分にまで警告が届いた。それはもう、蓮一人の問題ではない。美咲はスマートフォンを置いた。そして、ノートパソコンを開いた。
翌朝。美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。駅で声をかけてきた男性。水城さん、と呼ばれた気がした。けれど、本人は人違いだと言っていた。「……気にしすぎかな」そう呟いて、ベッドから起き上がる。スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。当然だ。会わないほうがいいと言われたのだから。それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。美咲は小さく息を吐いた。「私、こんなに寂しがりだったっけ」自分で言って、少しだけ笑う。蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。それで十分だった。けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。それが少し怖かった。会社に着くと、いつものように仕事が始まった。原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。そう思っていた。けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。何も届いていない。
「五年前、お前は何を見た?」 電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。
週が明けた。美咲はいつも通り出社した。けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。蓮から連絡が来ない。昨日も、その前の日も。これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。《今日は遅くなりそうです》《ちゃんと帰れましたか?》そんな何気ない言葉だった。それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。「……何を期待してるんだろう」自分に呆れながら、画面を伏せる。仕事に集中しよう。そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。昼休みになっても、通知はなかった。美咲は小さく息を吐いた。忙しいのかもしれない。そう思えばいい。それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。その日の夜。仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。画面には、蓮の名前。美咲の胸が跳ねる。《少し会えませんか》短いメッセージだった。《今からでも大丈夫です》すぐに返信する。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。
翌朝。美咲はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。蓮と話した。それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。好きな本の話をした。休日の過ごし方を聞いた。くだらない話で笑った。たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。スマートフォンを手に取る。蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。「……私、いつからこんなになったんだろう」まだ恋人ですらない。それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思っている。だからこそ、美咲は少し怖かった。また誰かを好きになってしまうことが。その日の昼休み。美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。画面を見る。蓮からだった。《今日、仕事は遅くなりますか?》思わず頬が緩む。《たぶん七時くらいです》すぐに返信が来た。《もしよければ、夕食でもどうですか》美咲は数秒、画面を見つめた。







